History
1908〜20年代前半
-インテルの誕生〜発展期-

 1908年、1899年に誕生して、すでにスクデットを3回獲得していた"ミラン・クリケット&フットボール・クラブ"は外国人選手の加入問題で内部に二つの派閥ができていた。そして、反主流派(外国人選手の加入を認める))は1908年3月9日にミラノのレストラン“オロロージョ”にて会合を開き、ミランからの分離・独立を決め、チームカラーを青、黒、金とし、チーム名を「外国人選手にも広く門戸を開く」ということから“Internazionale(インテルナツィオナーレ)(英語の“International”の意)”として、インテルの母体が出来上がった。
 そして、2年後の1909-10シーズンには当時無敵だったプロ・ヴェルチェッリを倒して初のスクデットを獲得し、1919-20シーズンにもリヴォルノを倒して2回目のスクデットを獲得した。

 

←初めてのスクデット




 2回目のスクデット→

1920年代後半〜40年代前半
-ベッピーノの登場と第1次黄金時代-

 1920年代後半、ムッソリーニを党首とするファシスト党の影響はサッカー界にも及び、国粋主義を掲げるファシスト党にとってこのチーム名と外国に対して寛容な精神はその思想に反するものだった。そこでまずムッソリーニは1928年にインテルとUnione Sportiva Milanese(USミラネーゼ)と合併させ、さらには翌年チーム名をAmbrosianaに、ユニを白地に赤い十字に変更させた。しかし、この決定は当然ながら熱狂的なインテリスタの怒りを買った。そして、彼らの講義により、1932年チーム名はAmbrosiana-Interとなり、ユニも元に戻され、辛くも"INTER"の名と青と黒の縦縞のユニの伝統は守られた。
 そのころ、インテルユースから超新星が誕生した。彼の名はGiuseppe Meazza(ジュゼッペ・メアッツァ)。そしてこのベッピーノという愛称で呼ばれた選手は、デビューシーズンの1928-29シーズンにいきなり得点王に輝く活躍をした。ドリブルが巧く、シュートも正確で、テクニックも抜群、パス能力にも優れ、さらに美男子だった彼は瞬く間にチームのアイドルとなり、またチームの中心選手になるのに時間はかからなかった。
 翌1929-30、初の全国リーグ(Serie A)が開催され、得点王に輝いたメアッツァ(35-36、37-38シーズンにも得点王になった)の活躍もあり、アンブロシアーナ・インテルは初の全国リーグのチャンピオンに輝いた。そして、チームの勢いは止まらず1937-38シーズンにも彼の大活躍で4回目のスクデットを獲得、さらに翌シーズンには初のコッパイタリアを獲得した。
 1939-40シーズンもメアッツァが病気により試合に出れなかったにもかかわらず、5回目のスクデットを獲得した。翌年メアッツァは408試合、287得点という偉大な記録(歴代最多得点)を残してチームを去り(1946-47に復帰)、アンブロシアーナ・インテルの黄金時代は終焉した。
 そして戦争が終わり、ファシスト政権が倒れ、1945年にチーム名は元のインテルナツィオナーレに戻った。

←若き日のジュゼッペ・メアッツァ

彼の死後、チームはその功績を讃えてスタジアムの名を
Stadio Giuseppe Meazza(スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ)
と改名した。

1940年代後半〜50年代
-サン・シーロとカテナチオ-

 

 1948年、インテルはそれまでのホームスタジアムStadio Civico Arenaの老朽化に伴い、ホームスタジアムをミランのホームスタジアムStadio San Siroに移転し、共同でスタジアムを使うことになった。
 1952-53シーズン、監督のアルフレド・フォーニはそれまで弱小チームが使っていた堅い守備からのカウンター(のちにカテナチオと呼ばれる)を基本とした戦術を使い、ストライカーの"Veleno(毒)"ことロレンツィとニエルス、左ウィングの"Nacka"ことスコグルンド、GKの"Kamikaze"ことゲッツィらの活躍もあり、6回目のスクデット獲得。翌1953-54シーズンは前シーズンに守備的過ぎると批判されたことから、攻撃的になり、7回目のスクデットを獲得した。
 そして1955年、後に伝説となる石油王Angelo Moratti(アンジェロ・モラッティ)が会長に就任する。

←インテルに数々の栄光をもたらしたアンジェロ・モラッティ会長

 現会長のマッシモ・モラッティは彼の四男。

1960年代
-魔術師とグランデ・インテル-

 監督の首を次々と挿げ替えていったモラッティ会長だったが、1960年についに素晴しい監督に巡り会った。彼の名はHelenio Herrera(エレニオ・エレーラ)。スペインのバルセロナに2回の優勝をもたらした、"マーゴ(魔術師)"と呼ばれるアルゼンチン人監督である。
 愛弟子Luis Suarez(ルイス・スアレス)を引き連れ、スペイン風の攻撃的サッカーで臨んだエレーラだったが、当初は結果が出ず1962年に一度解任された。しかしスペイン代表を率いたチリワールドカップから戻ってくると、再びインテルの監督に就任し、今度は堅い守備からのカウンターをチームの基本戦術とし、当時としては珍しいメンタルトレーニングも行い、チームの強化に着手した。
 そして1962-63シーズン、インテルはGKサルティやピッキを中心としたブルニッキ、グアルネーリ、ファケッティの守備陣の奮闘、司令塔スアレスのゲームメイクやコルソ、マッツォーラのファンタジーあふれるプレー、当時としては革新的だったSBのファケッティのオーバーラップによるカウンター攻撃で8回目のスクデットを獲得した。
 翌1963-64シーズンはボローニャに同勝点によるプレーオフに負けてスクデットは逃したものの、チャンピオンズカップでは当時無敵だったスペインのレアル・マドリーを倒し、イタリア勢ではミランに次ぐ2チーム目のヨーロッパチャンピオンに輝いた。翌シーズンにはアルゼンチンのインディペンディエンテを撃破してインターコンチネンタルカップを制し、世界チャンピオンになり(イタリア勢では初)、ベンフィカを倒してチャンピオンズカップも連覇、さらにはスクデットも獲得した。さらに翌1965-66シーズンにも再びインディペンディエンテを撃破して世界チャンピオンになり、国内では10回目のスクデットを獲得してユーヴェに次ぐラ・ステッラ(スクデット10回獲得を表す星)をユニにつけることを許されるようになった。翌シーズンもチャンピオンズカップ決勝に進んだが、今度はスコットランドのセルティックに敗れた。
 しかし、1968年モラッティ会長はIvanoe Fraizzoli氏に会長職を譲り、これによりグランデ・インテルの時代は終わりを告げた。

←1963-64のチャンピオンズカップ決勝の
 パンフレット



 2回目のチャンピオンズカップ制覇→

1970年代〜80年代前半
-夢の終わり-

 1970-71シーズン、選手と対立していたエリベルト・エレーラ監督の後を受けたジャンニ・インヴェルニッツィ監督はグランデ・インテルの遺産と得点王に輝いたボニンセーニャの活躍で11回目のスクデットを獲得、翌シーズンはチャンピオンズカップ決勝に進んだが、ヨハン・クライフ率いるオランダのアヤックスに完敗、これが最後のチャンピオンズカップ決勝となった。
 そしてコルソやブルニッキがチームを去り、マッツォーラも引退、偉大なるキャプテン-ファケッティも1977-78シーズンに2回目のコッパイタリアを手土産に引退しグランデ・インテルは完全に消滅した。
 1979-80シーズンにベルセッリー二監督の下、ボルドン、オリアーリ、マリーニ、バレージ、ベッカロッシ、アルトベッリ等の活躍で12回目のスクデットを獲得、1981-82シーズンに3回目のコッパイタリアを獲得し、黄金時代の再来を期待させたが、それも長くは続かなかった。
 また、1979年にジュゼッペ・メアッツァが他界、チームは1980年3月2日に彼の功績を讃えてスタジアムの名前をStadio Giuseppe Meazza(スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ)と改名した。

←グランデ・インテル時代の偉大なるキャプテンで、
 引退後もフロントでインテルの為に尽力し、現在は
 副会長を務めるジャチント・ファケッティ。

80年代後半
-一瞬だけの栄光-

 その後フライッツォーリ会長は1984年に"フィアットの従業員"と揶揄された会長のErnesto Pellegriniに会長職を譲る。
 そして1986年、ペッレグリーニ会長はユーヴェに黄金時代を築いたGiovannni Trapattoni(ジョヴァンニ・トラパットーニ)監督(現イタリア代表監督)を招聘し、インテルの復活を託す。
 最初の2年間は結果が出ないトラパットーニ監督だったが、1988-89シーズン、勝負弱さをドイツ人マテウスの"ゲルマン魂"を注入することにより補填し、ファケッティ引退以降不在となっていた左SBを同じドイツ人のブレーメで埋め、生え抜きのゼンガ、ベルゴミ、フェッリ、若手のベルティ、アルゼンチン人のディアス、得点王に輝いたセレーナなどを擁し、スクデットを獲得した。このときのスクデットは勝点が勝ち=2の制度の下では最高記録となる58(34試合26勝6分2敗)(現在のシステムでは84)、アウェー最多勝点26(17試合11勝4分2敗)(現在のシステムでは37)、アウェー最多勝利など数々のリーグ記録を塗りかえるものだった。
 翌シーズンドイツ人のクリンスマンを迎え、ドイツトリオを中心としたインテルはイタリアスーパーカップを制し、今度こそ黄金時代の再来かと思わせたが、それも一瞬の栄光にすぎなかった。

←記録的なスクデットとなった1988-89シーズン


 これが現在までのところ最後のスクデット。

90年代〜
-苦悩のネラッズーロ-

 その後ドイツトリオとトラパットーニ監督はインテルに1990-91シーズンにローマを破りUEFAカップをもたらす。しかし、トラパットーニ監督はシーズン終了後ファンの「つまらないサッカー」という声の下に解任され、インテルの迷走が始まる。
 1992-93シーズンにバニョーリ監督の下、"ゴールの詩人"ことルベン・ソサの活躍で2位になったインテルは、翌シーズンベルカンプとヨンクを獲得してスクデットを狙ったが、結果は13位という史上最低の成績、彼等も2回目のUEFAカップをもたらしただけだった。
 1995年2月18日、グランデ・インテルを築きあげたアンジェロ・モラッティの息子Massimo Moratti(マッシモ・モラッティ)が累積赤字で経営に行き詰まっていたペッレグリーニからインテルを買い戻し、インテルは再びモラッティ家のものとなった。しかし、毎年のように多額の移籍金でスター選手を買い漁り、何度監督の首を挿げ替えても、1997-98シーズンに3回目のUEFAカップ(現在のところ最後のタイトル)を獲得することしかできなかった。
 21世紀に入り、2001-02シーズンにスペインのバレンシアを2年連続チャンピオンズリーグ決勝に導いたアルゼンチン人監督のHéctor Cúper(エクトル・クーペル)を招聘し、最終節まで首位に立っていたのに最後の試合に敗れ、またしてもスクデットを逃してしまう。
 クーペル体制2年目となる今シーズン。果たしてインテルは栄光をつかむことができるのだろうか?

←このロナウドの表情が90年代以降のインテルを
 象徴している。

Wikipedia「インテルナツィオナーレ・ミラノ」2007年7月7日 (土) 15:02のばっじょによる投稿は、
このWebページの作成者によるものです。
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